The Roodys Official Homepage
HISTORY
1980
東京。
秋村恵丈が、ストリートで絶大な支持を得ていたアナーキーのスタッフを経て、事務所「ミュージックプランターズ」所属する。
1982
イギリスのロックセンスを継承するグループとして、The Roodysを結成。
オリジナルギタリストは、本田毅(後のPERSONS,fringe tritone)、ドラムは小野口直人(後のシオンバンド、大江慎也バンド)、サポートメンバーとして内藤幸也(ARB)等も参加した時期もある。
1983
秋村恵丈が、今も「あの場所こそロックの聖地だった」と語られる小滝橋の旧新宿LOFTの店長となる。(部下には、現LOFT社長の小林茂明氏もいた。)
秋村の周りにはアナーキーはもちろんARB、BOØWY、アレルギー、PERSONZといった日本のロックシーンにとって重要な存在となっていくロッカー達がひしめいていた。
そして、新宿LOFT・渋谷LIVE INNで行われた、BOØWYのセカンドアルバム「INSTANT LOVE」発売記念ライブではサポート出演もした。
その中で、後に様々な形をとりながら成熟していくロックカルチャーを目の当たりにしながら青春時代を過ごしたことが、今現在の秋村恵丈=The Roodysを形成する重要な要因であったことは間違いない。
その後、The Roodys は活動の拠点を、一時故郷である熊本 八代に移し、独特な活動を展開する。
「CLUB THE DOORS」というロックフリークのための集合体を編成し、The Roodys のライブイベントはもちろん、若手バンドの育成、さらにはロックファッションの流布まで、当時の地方都市にはおそらく有り得ないであろうロックカルチャーを故郷に根付かせようと精力的に活動を行った。
熊本 八代での成功をもとに、九州第一のロックシティ博多に進出していく。
博多進出後、THE MODSと出会い多大なシンパシーを得る。
そしてTHE BODIESと運命的な出会いを果たし、共闘を誓い合った後、博多にて「メインライン」と銘打ったロックフェスティバルを大ホール中心に展開、
九州の最重要バンドとしての地位を確立した。
因みに当時のギタリストであった山村幸生は、後にロンドンへ渡りプライマルスクリームのオープニングアクトをつとめるなど活躍。ラモーンズのワールドツアーにも参加した。
THE MODSのアルバム「EASY COME EASY GO」に秋村丈慈(B.)と山村幸生(Gt.)がコーラスとして参加。都久志会館で行われたシークレットライブにもサポートして出演した。
1991
再び上京。
培った音楽を吐き出すかのように活動を展開。
新宿LOFTを中心にライブを行う。
THE MODSのシングル「アンダー・ザ・ガン~市街戦」、アルバム「叛~REBEL」に秋村恵丈(Vo.)がコーラスとして参加。
1993
本田毅プロデュース、谷口宗一(exBAKU)のシングル「空を見上げる涙は・・・」に秋村丈慈(B.)が参加。
秋村恵丈と本田毅(G from PERSONZ)のユニットで複数のライブイベントに出演。
そうした活動の中、幾多のデビュー、レーベルへの誘いがあったが、秋村の理想と合わず契約には至らなかった。
秋村の理想は、ただ単にロックバンドしての成功を目指す事ではなかった。
シーンそのものの革命を狙うThe Roodys はレーベルにもその理念を貫ける場所を求め、遂にロックフォードレコードと出会う。
そしてロックフォードレコードには、博多時代の戦友 THE BODIESが待っていた・・・。
The Roodys は、本格再始動後すぐにアルバム制作に突入。
さらにはライブ再開後、2本目にしてワンマンライブを成功させるという快挙を成し遂げた。